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お寺で学ぶエトセトナク語。 [涙活]

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こんにちは、泣語家の泣石家 霊照です。
先日、某お寺でのお盆の法要泣語が無事終了いたしました。ご参列くださった方々誠にありがとうございます。

お寺という空間で行う泣語はいつもながら緊張感があります。それは、本来仏事のために集まっている方々に対し僧侶がいる中で、単なる小僧の手習いである噺家風情が何を伝えることができるのかという所です。もちろんお説教ができるわけでもないし、生きることを説くなどできるはずもない。ただ、涙を流してストレス解消をと話す自分はある意味滑稽であり、「浅いな…」と思うわけでありました。やはり信心や信念などには叶うはずも無く、僕の後の僧侶先生の話に皆の耳目が集まるわけでございます。僕も勉強させていただきました。

そんな中、何回も続けているおかげか「泣語、聞いたことあるよ」という門徒さんが増えていたのは嬉しかったですね。やはりリピーターは大事です。それと共にリピーターがいるからこそプレッシャーを感じながら芸を磨いていかないとならないと思えるわけでございます。僧侶先生は言いました。死ぬこととはなんですか?それは忘れ去られることです。だからこうしてお盆を通して、縁者が集まれたこと、故人はこの出逢いを亡くなった後でさえ私たちの為にこさえてくれています、と。肉体は亡くなっても、私たちの間でその方の話題がのぼる限り、故人は尚も生き続けているのですと。

確かに、その通りだと思いました。

誰しも忘れ去られるのは寂しいもの。そして、声をかけられれば嬉しいものです。今その方が生きているならなおさら。日々は忙しいかもしれませんが、折を見てご機嫌伺いをすることが、何よりの愛情表現であります。


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